「上げたい。でも原資がない」——その悩みを分解するところから
毎年春が近づくと、多くの経営者が同じ悩みを口にします。「社員の給料は上げてやりたい。物価も上がっている。しかし、うちにその原資はあるのか」。大手企業の賃上げ率がニュースになるたび、社員の視線が気になる——そんな感覚をお持ちの方も多いはずです。
この悩みは、「上げるか・上げないか」の二択で考えると出口がありません。①上げないリスクを数字で把握する、②昇給の型を使い分ける、③原資を作る、④公的な支援制度を使う——この4つに分解すると、自社の打ち手が見えてきます。このコラムでは、令和8年度の賃上げ支援策も含めて、中小企業の昇給の考え方を整理します。
賃上げしないリスクを数値化する——採用競争力と離職コスト
まず直視すべきは、「上げない」という選択にもコストがかかるという事実です。第一に採用競争力。求職者は求人票の給与欄を必ず比較します。地域の同業他社が賃上げを続ける中で自社だけ据え置けば、応募数の減少という形で確実に跳ね返ります。最低賃金の引き上げが続く今、初任給や若手の水準が地域相場を下回っていないかは毎年の点検が必要です。
第二に離職コストです。社員が1人辞めると、求人広告費や紹介手数料といった直接費用に加え、後任が戦力化するまでの生産性低下、教育にかかる先輩社員の時間など、目に見えにくい費用が積み上がります。一般に、離職に伴う総コストはその人の年収の数割から場合によっては年収相当に達するとも言われます。「昇給分の人件費」と「辞められた場合の総コスト」を並べて比較する——これが賃上げ判断の出発点です。なお、給与だけが定着の決め手ではありません。賃上げ余力が乏しい時期の定着策は給料を上げずに定着率を高める方法で解説しています。
ちなみに、昇給額の相場を「◯円」と断定することはできません。業界・地域・企業規模で大きく異なるためです。厚生労働省の賃金構造基本統計調査や、都道府県・業界団体の賃金データなど、自社と条件の近い統計を確認することをおすすめします。
昇給の3つの型——定期昇給・ベースアップ・成果配分
「昇給」と一口に言っても、性質の違う3つの型があります。第一に定期昇給。勤続や習熟に応じて毎年少しずつ上げる型で、社員に「この会社にいれば給料が上がっていく」という見通しを与えます。第二にベースアップ。賃金表や給与水準そのものを底上げする型で、物価上昇や地域相場への対応がこれに当たります。第三に成果配分。業績に応じて賞与や一時金で報いる型です。
中小企業で事故が起きやすいのは、この3つを区別せずに「今年は頑張ったから一律で上げる」を繰り返すケースです。固定費である月例給与の引き上げ(定昇・ベア)と、業績変動に合わせられる賞与(成果配分)では、経営に与える影響がまったく違います。「確実に払い続けられる部分は月例給与で、業績次第の部分は賞与で」という切り分けを持つだけで、無理のない賃上げ設計ができます。また、誰をいくら上げるかの根拠には評価の物差しが必要です。評価と昇給の連動については評価制度の記事も参考にしてください。
原資の作り方——生産性向上と価格転嫁
賃上げの原資は、突き詰めれば「生産性を上げる」か「価格を上げる」かの2つからしか生まれません。
生産性向上の第一歩は、設備やITへの投資です。手作業の受発注をシステム化する、旧式の機械を更新して段取り時間を減らす、配送や在庫管理を効率化する——1人あたりの付加価値が上がれば、それが昇給の原資になります。後述する業務改善助成金は、まさにこの設備投資と賃上げをセットで支援する制度です。
価格転嫁は、多くの経営者が最も苦手とする領域ですが、避けて通れません。原材料費や人件費の上昇分を価格に反映できなければ、賃上げは自社の利益を削るだけの我慢比べになります。取引先への価格交渉では、コスト上昇の根拠資料を揃えること、そして「人件費の上昇分」も原価として堂々と提示することが重要です。国も労務費の転嫁に関する指針を示しており、交渉の追い風は以前より強くなっています。
業務改善助成金という選択肢——賃上げと設備投資を同時に
「賃上げしたいが、そのための投資資金もない」という場合に検討したいのが業務改善助成金です。事業場内で最も低い賃金(事業場内最低賃金)を50円以上引き上げ、あわせて生産性向上のための設備投資などを行った場合に、その費用の一部が助成される制度です。
令和8年度(2026年度)は制度が大きく再編され、引き上げ額のコースは50円・70円・90円の3区分となりました。助成率は、引き上げ前の事業場内最低賃金が1,050円未満なら4/5、1,050円以上なら3/4です。上限額は引き上げるコースと人数によって変わり、最大で450万円(90円コース・8人以上)、物価高騰等の影響を受ける特例事業者では最大600万円(10人以上)まで用意されています。対象となるのは、事業場内最低賃金が改定後の地域別最低賃金を下回っている事業場です。つまり、「地域の最低賃金に近い水準の社員がいる会社」ほど使いやすい制度と言えます。変更点や申請手順の詳細は業務改善助成金【2026年度】の変更点解説にまとめています。
※金額・要件は変更されることがあります。最新は厚生労働省の一次情報をご確認ください。
【無料】賃上げの前に、社員の「本当の不満」を把握する
賃上げは強力な一手ですが、万能ではありません。不満の正体が評価への不信や人間関係にある場合、昇給しても離職は止まらない——これは多くの会社で起きていることです。
キャリアクリエの無料組織診断ツールを使えば、社員の不満が「賃金」にあるのか、「評価」「関係性」「将来性」にあるのかを切り分けられます。限られた原資をどこに投じるべきか、判断材料としてぜひお試しください。
キャリアアップ助成金との併せ技——非正規の処遇改善
パート・アルバイト・契約社員の処遇改善を考えるなら、キャリアアップ助成金(正社員化コース)も視野に入ります。有期雇用労働者を正社員に転換し、転換後6ヶ月の賃金を転換前より3%以上増額するなどの要件を満たすと、中小企業では対象者1人あたり最大80万円(重点支援対象者の有期→正規の場合。40万円×2期に分けて支給)が支給されます。
令和8年度の雇用関係助成金は、「賃上げ支援助成金パッケージ」として体系化されました。①生産性向上の支援(業務改善助成金など)、②非正規雇用労働者の処遇改善(キャリアアップ助成金など)、③より高い処遇への労働移動——という3本柱です。自社の賃上げ課題がどこにあるかによって、使うべき制度が変わります。正社員化コースの要件や手続きはキャリアアップ助成金で正社員化する方法で詳しく解説しています。また、どの助成金が自社に合うかを一覧で確認したい方には、中小企業向け助成金ガイド(無料PDF)もご用意しています。
社員への伝え方——昇給の「根拠」を語れるか
最後に、意外と見落とされがちな論点です。同じ昇給額でも、伝え方によって効果はまったく変わります。明細の数字が黙って変わっているだけでは、社員は「上がった理由」も「来年も上がるのか」も分かりません。
昇給を伝えるときは、①会社としての賃上げ方針(なぜ今年上げるのか)、②本人の昇給の根拠(評価のどこが反映されたのか)、③来期への期待——の3点をセットで、できれば面談の場で伝えてください。「何を頑張れば次も上がるのか」が見えたとき、昇給は初めて動機づけとして機能します。逆に、根拠を語れない昇給は、原資を使ったわりに感謝も定着も生まない「もったいない賃上げ」になりがちです。
まとめ|賃上げは「我慢比べ」ではなく「設計」で乗り切る
整理します。①賃上げしないリスク(採用競争力の低下・離職コスト)を数字で直視する。②定期昇給・ベースアップ・成果配分を切り分け、払い続けられる設計にする。③原資は生産性向上と価格転嫁で作り、業務改善助成金など令和8年度の賃上げ支援パッケージを活用する。④昇給は根拠とセットで伝えて初めて効果を持つ。
原資の乏しさは、多くの中小企業に共通する制約です。だからこそ、支援制度を知っているかどうか、昇給を設計として扱えるかどうかで差がつきます。まずは自社の賃金水準と地域相場の確認、そして使える制度の棚卸しから始めてみてください。
